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映画『戦艦大和』(1953年作品)

この映画は、副長が艦内巡検を行うシーンから始まる。

近年公開されている戦争ものの映画では、後の世代による導入的なシーンがある(例:子どもや孫が祖父世代の足跡をたどる)のとは対照的だ。公開されたのが昭和28年なのもあって、戦争がどういうものであり、この作戦とその結末がどういうものであったかということが暗黙のうちに見る者にも共有されていたということなのだろう。これから映画で描かれる出来事がどういう状況で起きたものであるのか、現代では導入シーンが必要になったというところに時の経過を感じる。

原作である吉田満の『戦艦大和ノ最期』に忠実に沿っており、「進歩のない者は決して勝たない 負けて目覚めることが最上の道だ」と述べて青年士官たちの生死論争を収めたとされる臼淵大尉、二世として生まれ二つの祖国の間で苦悩する中谷少尉など、原作者の思い入れの深い人物がよく描かれている。威厳ある伊藤整一中将、責任感が極めて強い有賀幸作艦長、温かい人柄が偲ばれる能村次郎副長など、人物造形が傑出しているのだが、若き日の高島忠夫が大阪のボンボン・高田少尉がを演じており、いい味を出している。

私はこういう、古き良き日本映画が好きで、特に、奇を衒わず冗長なところもない映画が本当に好きだ。なるほど特撮はこの時代としても稚拙かな、とは思う。でも、何しろ昭和28年なのだ。俳優陣にも従軍体験のある人が多かったのだろう。背筋が伸びてリンとした雰囲気、お腹からしっかりした発声など、さもあらんという雰囲気をよくまとっており、更に人物造形や映像による感情表現の巧みさともあいまって、そういうことはどうでもよくなる。

乗員たちが遭遇する過酷な現実と彼らを思う人々のカットバックが悲劇を浮き立たせる。小物の使い方も実に巧みだ。前進する大和に翩翻とはためく日章旗、そして大和沈没のあと水面に漂う日章旗の対比。そして、ここにこの曲を重ねるのは反則だ、と思うくらいのタイミングでかかる「海ゆかば」が心憎い。

先の戦争における戦略的意味と比較した時、不釣り合いなほどの関心を集めつづけ、芸術作品が作られ続けてきたことの意味−−普遍的な悲劇性−−を感じさせる作品だ。

 

 

 

 

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