スポンサーリンク

辻邦生著 『モンマルトル日記』

高校生の頃から手元にあり、折に触れて読み返している本。

ご覧のように表紙の色は変わり、実はページもばらばらである。今年の初め、コロナの状況が日に日に深刻化し、息を詰めるようにして生活していた日々によく読んだ。

「もし現代文学における辻邦生の存在理由を一言でと問われるならば、われわれが長い間忘れていた生きることの喜びこそ芸術の本源にほかならないという素朴な事実を、その作品によって教えたことだ」という、巻末の源高根による解説が圧巻だ。

しかし、「生きることの喜び」が永遠のものとなるのは、「究極的には人間が死に直面している事実に目をそむけない態度」によってのみである、と源はいう。

最後のところはそのまま引用しよう。

”辻邦生の小説に描かれた人物の誰ひとりとして、ただ惨めでしかない敗北的な死をもってその生涯を閉じた例はない。与えられた生と直面し、運命を生ききった姿において、彼らは人間が生きることの意味を読者に感銘させる。そのような人間の意志的な態度の結果として、辻邦生の作品には悲哀の感覚がある。人間が意志的であるとは、いかなる生き方であろうか。それは人生の局面のひとつひとつにおいて、積極的に決断するということではないだろうか。たとえ時の流れの中にむなしく消え去るとしても、なおそのむなしさに徹して決断し行動すること、そこに普遍的な人間の姿があり詩があることを、辻邦生の登場人物は語っている。”

(『モンマルトル日記』解説より)

有名人がコロナで相次いで亡くなった時期、入院すれば家族が付きそうこともできず、死に目にもあえず、お骨になってから引き渡されるということが話題になって、この病の残酷さにうちのめされていた。また、霊安室が一杯になったために冷蔵車を病院の外に横付けにしたり、埋葬を待つ棺が教会に溢れている海外の映像を見て、「世界が根本的におかしくなってしまった」をいう感覚を抱いた。そういう時に、手に取って励ましや慰めを得ることのできる本を持っていたことは幸いであった。

今から考えると滑稽かもしれないが、死の恐怖にとりつかれ、悶々とした挙げ句、「医療関係者はあんなに頑張っているし、宗教指導者は必死で祈っているだろう。みんなが努力している。自分も気をつけるけれども、かかったらかかったで雄々しく生きること」という言葉を日記に書き残した。その時は感染=死、というイメージが強かったのだ。

「危機に直面した時、人は得意なことで乗り切ろうとする」。これは、パオロ・ジョルダーノの『コロナの時代の僕ら』について誰かが書いた批評の中で見かけた言葉だ。自分の場合は、コロナによって自分に降り掛かってきたあれこれが決して自分個人の体験だけにとどまるのでなく、多くの人に共通する苦難や課題なのだということに思いを馳せることで辛うじて心の平衡を保ったように思う。そして、そういうことを可能にしてくれたのは、ごく若い頃から親しんできた言葉の数々だった。

生涯を支えてくれるような言葉に若き日に出会えるのは幸いである。今の若い人々にも、そういう出会いがあることを心から願う。

 

タイトルとURLをコピーしました