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山口 周著『世界のエリートはなぜ「美意識を鍛えるのか」 経営における「アート」と「サイエンス」』

読書

著者の圧倒的な読書量と、それを自在に引用しつつ論を展開する見識の高さに脱帽の1冊です。新書とは思えないほどの情報量があり、日本語の本を読むのが比較的速いはずの私もかなり時間をかけて読み終えました。Kindle版を読んでいたのですが、非常に興味深い指摘が多かったので、ハイライトを引きまくりだったのです。


著者の主張を非常にざっくりまとめると、「今日の世界は「VUCA」=「Volatility=不安定」「Uncertainty=不確実」「「Complexity=複雑」「Ambiguity=曖昧」という言葉で象徴される状況になっている。この状況に対し、従来の「サイエンス」=「分析」「論理」「理性」に軸足を置いた「サイエンス重視の意思決定」では経営の舵取りができない。だから「世界のエリートは美意識を鍛えるのだ」ということになろうかと思います。

「ソマティック・マーカー仮説」(ここで引用されているAntonio Damasioの”Descartes’ Error”、未だに積ん読になっています…)「意思決定における感情の重要性」「”偏差値は高いが美意識は低い”という人たち」「悪とは、システムを無批判に受け入れること」「鍵は”基準の内部化”」など、さっと目を通すだけでワクワクするような小見出しが並んでいます。

個人的に非常に面白かった指摘をひとつ引用。

私たち日本人の多くは、ビジネスにおける知的生産や意思決定において、「論理的」であり「理性的」であることを、「直感的」であり「感情的」であることよりも高く評価する傾向があります。この「論理的で理性的であることを高く評価する傾向」は、決してそれが「巧みである」ことを意味せず、むしろ私たち日本人が、権力者が作り出す空気に流されてなんとなく意思決定してしまう傾向が強いことへの反動で、一種の虚勢なのですが、この点についてはのちほどあらためて触れたいと思います(位置No.354-358)。

『失敗の本質』『「空気」の研究』に代表されるように、「日本人がその場を包む”空気”に流されて、しばしば非合理的な意思決定をしてしまうことを知って」(位置No.1015)いるが故に、過剰反応になっているのではないか、というのですね。だから、意思決定において、「アート」寄りではなく「サイエンス」「クラフト」志向の意思決定をしがちであるが、それが現代の混沌とした、先の読めない状況にはそぐわなくなってきていると。

非常に鋭い指摘だと思いました。そして、「論理的で理性的であることを高く評価する傾向」はあるが、それが「巧みであることを意味せず」というところがまさに正鵠を射た指摘と思います。

成人発達心理学に興味を持って学んできた身として非常に興味深かったのは、「真・善・美」の三つについて、「客観的な外部のモノサシ」だけではなく、「主観的な内部のモノサシ」を持つべきではないか、という問題提起でした。

しばらく前から自分の周りではちょっとしたブームになっている本に『ティール組織』という本がありますが、「価値の内面化」ができるという重要な発達段階の達成事項(これは、ティールっぽい言い方をすれば、オレンジ段階ですでにある程度は達成できるはず。もっと深い内省の能力はグリーンに到達しないと無理かと思いますが)に注目せず、「グリーン」や「ティール」に憧れるのは考え物だと思わされました。

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ただ、この本を初めて読んだ時から3年経って思うのは、この切り口は、「役に立つから教養を高めるのだ」という実用主義に結局のところは絡め取られてしまうのではないか、ということです。「経営の舵取りができない」という文章から垣間見えるように、本書はあくまでビジネス・経営という視点から見たものだ、ということもできるのですが。

近年、この本に想を得たと思われる社会人向け美術講座などがいくつも開催されています。でも、それにはちょっと違和感を感じるのですね。

日本人は真面目ですし、日本という国が余裕がなくなっている証左なのか、「ビジネス面で役に立つのか」という観点からのみ分析がなされ、言説が展開されることが圧倒的に多いと感じています。例えば、しばらく前からブームになった「マインドフルネス」も、実践していれば仕事の効率化につながるから、という説明がよくなされますね。でも、「マインドフルネス」の源流である禅では、何かの役に立つことを考えず、ただひたすら座ることが重視されていたはず。

実践そのものを楽しむ姿勢を、私が愛読しているケン・ウィルバーは「ただそれそのもののために」と呼んでいます。美術も、いくつになっても、役に立つからというよりも、ただ楽しめばいいのではないかしら。

本を読むこと、絵を描くこと、散歩をすること、ヨガや運動をすること、音楽を聞くこと…何でもいいから、「それそのもの」に没頭することが可能である社会こそ、豊かな社会なのではないか。そういうことを考えています。

 

 

 

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